「心の原点」高橋信次

ポイント

各ポイント詳述…ご著書より

恵みを与える大自然

 

私たちは、偉大な神の慈悲によって、生かされ、生きています。

万生万物はすべて神の現れです。

私たちの肉体は動物や植物や鉱物などのエネルギーを吸収することによって、その保存ができます。地球の自転や公転によって春夏秋冬の自然現象が起こり、安定した生活ができるのもその一つです。太陽が熱と光のエネルギーを提供し、地球に調和された環境を提供しています。そしてこのエネルギーの代金を求めることもありません。

これこそが愛です。

人間は、この慈悲を受けているにもかかわらず、雨が降れば文句を言い、天気が続けば文句を言います。感謝の心がないのです。

 

自然界にも心があった

 

宇宙は、神という心を中心にして、回転しています。太陽をとりまく惑星群や衛星群、小天体群は、太陽の引力で、集団がそれぞれの軌道を規則正しく飛んでいます。

 

極微の素粒子にも核があり、その周囲に核外電子が回っています。もしそれがバラバラなら原子は存在できません。

 

大宇宙の意識にも中心があり、心という意思をもって私たちの心を支配しています。

大宇宙の心は慈悲と愛のかたまりなのです。

慈悲とは、なさけ、いつくしみ、思いやりです。人の苦労を見て、なんとか助けてやりたい、苦労を取り除いてやりたい、楽にしてやりたいという心です。

 

自然界にも心があった

 

宇宙は、神という心を中心にして、回転しています。太陽をとりまく惑星群や衛星群、小天体群は、太陽の引力で、集団がそれぞれの軌道を規則正しく飛んでいます。

 

極微の素粒子にも核があり、その周囲に核外電子が回っています。もしそれがバラバラなら原子は存在できません。

 

大宇宙の意識にも中心があり、心という意思をもって私たちの心を支配しています。

 

大宇宙の心は慈悲と愛のかたまりなのです。

 

慈悲とは、なさけ、いつくしみ、思いやりです。

 

人の苦労を見て、なんとか助けてやりたい、苦労を取り除いてやりたい、楽にしてやりたいという心です。

天国と地獄

 

人間の魂には三世あります。

 

過去世、現世、来世。

私たちは実在界と現象界を輪廻します。

永遠に…。

 

人間の魂(意識)の中には、ビデオレコーダーのように過去世の体験が記憶されています。

 

この世(現象界)では10%の表面意識で五官をとおして判断するために次元の異なった世界(実在界)を知ることは難しいのです。

 

実在界(天上界)では、90%も表面に意識が出ているために他人にも自分の思っていることがわかってしまいます。

 

だから実在界では修行という目的を果たすことは難しいのです。

 

天国での生活はこの世にくらべ喜びに満ちています。

反省の度合いがはやく、悪の不調和な想念に自分の心を汚すことがないからです。

 

地獄界は、地上界に執着を持っている者たちの世界で、非常にこの地上に近いところにあります。

 

土地や、家、墓や寺などに執着心が強く、そのような心を持った霊たちが、その場所を住家として、地獄界を展開しています。

 

このような霊たちを自縛霊といいます。

神意の縁

 

この現象界は、物質的な縁によって、あらゆる現象が起こる修行場です。

 

盲目で手さぐりの人生で、より豊かな心をつくるとともに、新しい学習をすることが目的の一つです。

 

そして、人類の大調和によるユートピア建設、それが万物の霊長である人間に課せられた使命でもあります。

 

人間は、実在界(天上界)から生まれてくるときは、誰もみな、丸く広い豊かな心を持っていました。

神の子として、善なる者でした。

それが生まれた環境や習慣や教育や思想、また友人の影響など五官にふれる一切のものによって性格が変わってしまうのです。

 

私たちの意識は、生まれたときは、100%潜在されています。

それが成長するにつれて表面に出てきます。

しかし表面意識は10%くらいまでしか外へ出ないために盲目的な人生でしかないのです。

 

その人間を、実在界に住んでいる守護霊や指導霊たちが、常に温かい心で見守っているのです。

 

地獄に行くのも、極楽に行くのも、自らの善なる心が、人生の一切を裁いたとうことなのです。

 

肉体舟の支配者こそ、不変の魂なのです。

経済の奴隷から脱せよ

 

調和とは、神の心であり、慈悲と愛の現れの姿です。

 

人は、まず天に感謝し、他の環境についても感謝の心を持つべきである。

 

今、自分はここにいる、というたしかな存在感。

この現象界に生きているということは、誰の責任でもなく、自分自身が求めてきたその結果として、在るのです。

 

私たちは、まずこの世で修行するための肉体を与えてくれた先祖、両親に感謝報恩しなければなりません。

 

その肉体を維持するエネルギーとしての動物、植物、鉱物についても感謝しなければなりません。

 

だから無駄にすることなく感謝して食することが報恩になります。

反対にぜいたくばかりして年中不満の心で食するときには肉体不調和の原因にもなってしまいます。

 

感謝の心は、このように報いる行為によって、循環の法則に従っています。

煩悩捨てるべし

 

病気は、気の病大半です。

 

肉体自体の過労によって自律神経の活動が弱まり内臓が悪くなることもあります。

 

暴飲暴食による胃潰瘍。運動不足、太りすぎによる心臓病。過激な運動による肺結核などもあります。

 

心の面から見れば、人を寄せ付けぬ自我の強い人、欲望に振り回されている人、怒り、そねみ、恨み、そしり、このような心を持っている人々は、自らの病気の原因を作り、事故の原因を招き、環境の不調和を作っています。

 

私たちの肉体には、適当な運動と休息が必要です。

 

金に恵まれている人々の多くは、つい好き勝手なことをしてわがままになり、貧乏で明日のパンにもこと欠く状態だと、心まで貧しくなり他人のことなどかまっていられなくなる。

 

私たちは転生輪廻の秘密を知ることです。

 

何も悟ることもなく、苦界から抜け出すこともできず、煩悩のままに一生をすごしても、生まれてくる前の丸い心を傷だらけにしてゆがんだものにしても自業自得です。

 

犯した自らの罪は、きびしい地獄界で償わなくてはならないことを知るべきです。

 

自分の姿を他人の立場で眺めてみること、これが中道の心。

自我を離れた客観的な立場なのです。

 

私心のないことが中道の心です。

悟りの彼岸への道

 

中道の道を歩むには「八正道」しかありません。

 

見ざる、聞かざる、言わざる…三猿の例は、煩悩が生じるもっとも危険な精神作用への戒めで、人間の弱いところをついています。

 

八正道の「正しく見る」は、善なる中道の心の眼で見よ。「正しく思う」とは、頭で考えないで、善なる中道の心で考えよ。「正しく語る」とは、善なる中道の心で考えたことを語るようにせよ、と言っています。

 

私たちのほんとうの幸せは、はたして経済だけでしょうか。

経済だけが幸せだと考えている人々は、本当に心貧しい人間です。

 

私たちは、日常生活でとにかくささいなことに心を煩わし、六根に左右されがちで心の歪みを作ってしまうものです。

眼、耳、口などに振り回されてしまうと、煩悩のとりこになり自分自身を失ってしまうものです。

 

「正しく生きる」には、まず六根に左右されない自分を発見することです。

それには自分自身の短所、長所をしっかりと見つめ、短所を修正し、長所を伸ばすことが大事であり、そのための勇気と決断が必要です。

 

「正しく道に精進する」とは、人と人の関係のことです。

私たちは争ってはなりません。争わずに「この哀れなものに、どうぞ神よ、安らぎをお与えください」と心から願うだけの余裕が欲しいのです。

 

「正しく念ずる」。〝念〟には目的があります。

えらくなりたい、良い家に住みたい、あの人と結婚したい、など…。念の正しいあり方は、中道にかなった目的がいちばん良いのです。

 

自分の欲望をもととした念はとどまるところがなく、人と人の調和を欠くことになります。

念のあり方は、足ることを知った、調和にもとづいたものであることです。

 

「正定」とは、反省です。

八正道の「正定」以外の7つの規範に照らして、今日1日の自分の想念と行為に行きすぎた点がなかったかどうか、まちがいがあれば改めて二度と同じ過ちを繰り返さないことです。

心の安らぎ

 

大自然は、ものを語らない。

人間は、ものを語る。

人間には、喜怒哀楽がある。

 

自然は私たちにわかるそうした感情は示さない。

しかし自然も生きている。

 

四季の移り変わり、風雨、寒暖、台風…すべて生きている表現です。

 

現象界にあるものは、すべて生命を持っており、生命があるということは、意識を持っているということである。

花も動物も同じである。

 

人間の感情想念、そこに住む人たちの意識の調和度、心の持ち方によって、その土地の空気はつくられています。

 

人間は、金や地位、名声あるいは才能がある人に、善人、偉人というレッテルを貼りたがる。

「…何だかんだといっても、あの人は大した人だ…」それは何に対する評価なのか冷静に考えてみる必要があるのではないでしょうか。

 

時代背景や思想、社会構造によって人間の道という価値観を変えてはならないのです。

 現世と来世の相違

 

あの世…ほとんどの人は、この世だけで死んだらおしまいと思っています。

 

それは唯物的な考えに支配され正しい生命の転生を知らない者たちです。

 

三次元の現世の肉体舟に乗っている時は、私たちの意識は10%くらいしか表面に出ていません。

だから一寸先がわからず、盲目の人生を歩んで苦楽を体験します。

 

しかし肉体舟からおりている時、(眠っているときや、心が調和されて魂が肉体から離れているとき)は、次元の違った世界に行っているため私たちの眼、耳、鼻、舌、身の五官は外部からの振動に無関心です。

 

眠ってしまえばどんな喜怒哀楽も忘れています。

私たちの心のあり方によって、私たちの意識は四次元以降多次元の世界にも通じるし、反対に非常に暗い四次元にも通じてしまいます。

 

だから心まで腐ってしまった思想家とその実践者は、最も厳しい煉獄地獄でマチガイに気づくまで修行します。

 

この現象界は、無から有が生じることは不可能です。

有から縁によって有が生ずることは、崩すことのできない現象であり鉄則なのです。

 

想念は現象を生み出す能力を持っています。

一念三千

 

人の心は自由である。

 

その広がりは、宇宙大にまでおよんでいます。

人間の心は、丸く大きく、豊かなものだ。

 

一念とは、想念の針である。こうしたい、ああしたい、あれが欲しい、これが得たいという想念である。

 

人間は二つのことを同時に思うことはできない。一つしかできない。その一つの悪を思えば、地獄に通じ、善を思えば天上界に通じる。だから悪は思ってもいけないのだ。

 

三千とは、三という数は割り切れない数である。

千とは大きいことを意味し、三千とは無限大という意味になる。

一念三千は、無限大の方向に突き進むとおうことだ。

 

悪を思えば悪の極に、善を思えば全の極に通じます。

心行の言霊

 

大自然の支配者である神は、公平にして無私、人もまた平等にして差別のない心の所有者である。

 

それなのに、人の世界は能力の別、好みの別、体力の別、知識の別、節度の別、生まれた環境の別があり、喜怒哀楽にも相違が出ているのはなぜだろうか。

 

働くものとその義務を怠るもの、

行動するものと傍観するもの、

学ぶものと享楽にふけるもの、

今日に生きるものと明日を楽しむもの、

健康なものと病弱なもの、

自分に厳しいものと人を責めるもの、

愛情深いものと薄いもの、

和合を旨とするものと争いの種をまくもの、

謙虚なものと自分を高く見せようとするもの、

責任を果たすものと依頼心の強いもの、

足ることを知るものと欲深きもの…。

 

こうした相違が、平等であるべき人間に不平等を作りだしている。

 

神は、決して人間を不平等に扱ってはいない。

太陽の光のように…。

 

愛は助け合い、補い合い、かばい合い、許しあう、その中に生きている。

愛は神の光である。地上の灯である。

 

暗闇の世界は自らの進路さえ迷わせる。

脅迫、強盗、迫害、暴行、詐欺…これらはそのまま恐怖の世界であり、満足することのない、欲望の尽きる事のない苦しみの世界である。

 

それは光明を失った人々の悪想念が作りだしたものである。

闘争と破壊、暴力、武力がまかりとおる世界である。悪魔は己の心のなかにもひそんでいる。

 

正道を悟って勇気と努力の実践に、偉大なる智慧が加わり、自らの欠点を修正したとき、心の悪魔は滅びます。己に打ち克つことのできるものこそ、真の勇者と言える。

 

作用と反作用。集中と分散。

この過程をとおして物質もまた輪廻している。

 

すべて原因と結果という「法」を曲げることはできない。

 正法とは調和の道

 

大自然の法則と、人間の心と行いの法則が調和された道を「正法」と言う。

 

春夏秋冬の四季、昼夜の別、生者必滅、因果応報、すべて正法にかなわぬはない。

 

自然は常に、地上の人間に生きる方法を教え、大慈悲を与えている。

 

真は偽の反対、偽があるから真があると人は見るだろうが、正法の理は、ただひとつの神の理をいうのだ。

正法は中道によって生きている。

正法は知識ではない。

観念でもない。

行いなのである。

 

人の想念も、輪廻の循環を続けている。

多くの「物」を持つものと持たないもの。

どちらが幸せか…

 

持つものが、それを失うまいとして、増やそうとすれば苦しかろう。

 

持たないものが、それを欲すれば、欲望のとりこになる

 

慈悲を法にたとえれば、愛は法の実践行為である。

慈悲を神とすれば、愛は人間の行為を意味する。

 

慈悲は万生万物に無限の光を与えるもので、愛は寛容にして助け合い、補い合い、許しあう行為といえよう。

 

調和は無限の進歩と、安らぎを与えよう。

調和の根底には、愛が働いているからだ。

神は光なり我とともに在り

 

 

 

人類は、ユートピア建設のために、永遠の輪廻をくりかえしている。

 

自分自身の正しい壮年と行為の積み重ねによって、神の心と調和されたとき、仏智は開かれるのである。

 

仏教ではそれを摩訶般若波羅蜜多と教えている。

人間は、高次元の世界から、肉体先祖から継承されてきた肉体舟に乗って、きびしい盲目の人生を体験している修行者なのである。

 

闘争も破壊も不調和な想念の現れである。

苦しみも悲しみも、自らの心の作用をともなって作りだしたものである。

 

私たちの心は一念三千で、自由自在の能力を持っている。

悦びに満ちた生活は、正しいかたよりのない物の判断と行動にかかっている。

 

人類の一人ひとりは、実在界の天使や光の天使たちの監視下にある。

人間の思うことや行うことは、すべてつつぬけなのである。