道
神は大宇宙を支配している、意識そのものである。この神の意を、諸々の衆生に伝え、神の道に教え導かれるのが仏または天使というのである。
この世では、神・仏の話をすると、
と言われる。しかし、これが自分の利益に関することとなると、そんなものはと言われた人が、手を合わせるようになる。
「人間は、何と身勝手なのか」と思わざるを得ない。
このような方は、心の面から見ると、実に気の毒な人々としか、言いようがない。
また反対に、神仏となると、鵜呑みにし、無条件で信じ込んでしまう人がいる。
えてして、このような人は、狂信・盲信となり、中には身を滅ぼす人もいる。
また同じ狂信・盲信でも、上手に立ち回るマニアというのもいる。
ここまでになると、こうした人々の心は、実に狭いものとなり、他を受け入れないものとなるのである。
仏である、モーゼ・釈迦・イエスは、生きている人々に、人間としての、心の尊厳性、偉大性を説き、人間が魂としての生きる術を教示され、仏自ら、諸々の事柄を、毎日の生活の中で、実践・体験を積み重ね、そのなかから、衆生にその道を説かれたのである。慈悲の心、愛の行為そのものである。
心とは
人間にとってな意識・心が重要なのであろうか。
この心こそ、神と己を結んでいる、絶対に失うことのできない、接点なのである。
そして、の心こそが、魂としての中心に位置をしている、真我そのものなのであり、本当の自分自身である。
心には、中心部に、想念という領域があり、感情そして本能の領域、そして知性と理性の領域があり、円を形どり、ひと時の休みもなく、ひたすら、神仏の心に至る道を、前進という運動を永遠に続けているのである。
イエスさまの言葉に「思うことは、行為を意味する」とあります。
思うこと、考えることは、行為の始まり、出発を意味します。
この宇宙の中は、すべて転生輪廻という運動のなかで、物質となり、分散によって消滅するというくりかえしを永遠に続けていくのである。
こうした中で人類は、日々の生活を通し、諸々の物質を創造し、互いに、神の子として、より進歩、成長し、大調和という目的のために使用するか、または国対国、民族対民族、権力対権力、人間の欲望より生ずる自然破壊など不調和なことのために使用しちぇ破滅してゆくかは、神は一人ひとりの人間の心に一任されておられるのである。
このように万生万物の幸福も不幸も、人間一人ひとりの毎日の生活の中での「心のあり方」にかかっているということである。
心を正すために「反省」という、人生には必要なものがあるのです。
反省は他を批判したり、他人のせいにしたりして自分が正しいとするようなものではありません。
自分のまちがいを、その環境や境遇のせいにすることでもありません。
自分の心の非によって作りだしている、悩み苦しみの原因となっている、業を追求して、心の善悪を見極め、より心を浄化し、万生万物との共存共栄にそった、神の意にそった、毎日の生活のできる、魂としての己を確立することが目的・使命なのです。
生きる
水を持つ天体、地球。
生命の泉は水であり、食物です。
それらはすべて、太陽の熱・光のエネルギーによって、その存在があるのです。
しかし、こうした大自然の恵みに気づかない、気づこうともしない人間が多いのです。
人間や生きているすべてのものの「争い」は、究極的に見ると「食べ物」の奪い合いから起きています。
また人間は衣・食・住が満たされれば、生活は華美に流れ、奢りに奢り、思いあがってしまうものです。
人間は、肉体や物質がすべてだと、錯覚をして物、もの、モノと「足る心」を忘れ、欲は欲を積み重ね、それによって苦しみ、悩み、迷い、それらの原因を解決もしようとせず、あっという間の人生を終わって行く人が多いのです。
人間はこの地上界での生活の意味を忘れてはいけません。
この世では、見たり、聞いたり、話したり…そんな体験を絶えずしています。
その「体験から学ばないといけにことが無限にあり、そうしたことを通し、
「不退転の心」を養い、心豊かに、この世に生まれた目的である、
それには、心静かな時が必要なのです。
「他を詮索すべからず」…自分以外の人のことをあれこれこまかく調べないこと。
「小さな自分だけの肉体に想念を固定してしまうと、苦悩という悲劇が生まれる。
心は宇宙大そのもので、肉体は、その心をためす器なのです。
そして物質のこの世は、己自身が霊として、その心の浄化をはかるため、神が与えてくださった、修行の場なのです。
知らねばならぬ仏の教え①
私たちの日常習慣の中には、わけもわからず、「習慣だから…」と、それを行っていることが非常に多くあります。これを「陋習」(わるい習慣)といいます。
「阿弥陀浄土の教え」
お釈迦さんのお弟子さんに、ビンビサラという、マガダ国の王様がいました。王様夫人はイダイケという人でした。王子はアジャスターという人でした。
このアジャスターさん、ダイバ・ダッタという人にだまされて王様を牢屋に閉じ込めてしまいます。もちろんイダイケ夫人はなげき悲しみましたが、どうすることもできませんでした。
そして王様がせめて元気にいられるように毎日食事を隠れて運んでいました。
するとそれが、王子にばれて夫人も牢屋に閉じ込めてしまいます。
王様は牢屋で亡くなってしまいました。
夫人は王子に
「アジャスターと、父王が亡くなった今、わたしはもう何も欲するものはない。ただ死ぬ前にゴーダマ仏陀(お釈迦さん)のお話しを聞きたいので一度でいいから呼んで欲しい」と頼みました。
アジャスター王子はこの願いを聞き、お釈迦さんを呼んだのです。
そしてお釈迦さんはこのイダイケ夫人に話をしました。
「人間は誰も環境がどうあれ、境遇がどうあれ、時が来れば、この世を去る。これが大自然の掟である。その行く先は、ここから西の方角の上空に、阿弥陀如来さまがいらっしゃる浄土がある。そこに帰らなければいけないのですよ。そのためには、心を浄化することです。それは、他人に対しての恨みや憎しみ、妬み、誹り、怒り、愚痴、特に憎しみや恨みは、絶対に捨てないといけないのです。あなたは王子のアジャスターを決して恨み肉親ではいけないのです。そしてこの世への執着を捨てて、すべてを許せる心になることですよ。」と話されました。
この話を聞いたイダイケ夫人は「仏陀の教えに帰依します」と、持っていた布を三画に畳み、前方に置き、額を深々とたれたのです。
このお釈迦さんがイダイケ夫人にしたお話しが「阿弥陀浄土の教え」です。
そしてイダイケ夫人がおりたたんだ三画の布が「仏壇にあったり、亡くなった人の額につける三画の布」なのです。
転生輪廻
魂としての観点から見た肉体人間とは…。
肉体を持ってこの世に生まれていることは、あの世での縁という、約束ごとを両親が果たしてくれたことです。
そして一人ひとり、出ている時間の終了によって、この世を去ることになります。
この時には、自分と思っていた約60兆という、膨大な数の細胞集団である肉体との、しばしの別れなのです。
あの世とこの世のちがいは「あ」と「こ」のちがいでしかありません。
「あ」から「こ」に住まいを変えるのです。
この世での時間は、一人ひとりが持たされているものです。
その時間は生まれる前、承知して誕生してきているのです。
だから「今世での両親に対しての感謝の心、そして親孝行はぜひともしなくてはならないものです。
この世を終わるときが来てもなかなか去れないという人は、自分と思っていた肉体や自分のものだと思っていた、地位・名誉・財産というものなど…時間が来ればこの世に返さないといけないという、神の掟(大自然の法則)に従えない、超唯物的な考え(ものこそすべて)の人です。
この人は、この世を欲望のみで行き、その欲望に執着という強烈な作用が起き、この世を去ることができないのです。
こんな人の肉体(死体)は、カチカチに硬直しています。
そして明るい天上界ではなく、その魂は自縛霊として、この世を終えたことも、行く先も知らず、迷える霊となってしまう哀れな魂なのです。
魂から見た(本当の…)物質界(この世)のすべては、幻そのものなのです。
この世を、生きる目標もなく、ただ自我のままに生きるもの、地位・名誉・財産、そして他人を恨み憎しみ妬み誹り、虚栄心ばかり高く、または反対に、卑下をしたりで、明るいことは一つもなく、暗いことばかり…。
これでは、時間はどんどん過ぎて気がついたらこの世の終わりが近づいていたとなるのです。
「時はすべてを待たず
ただ、音もなく
うち過ぎてゆく
人は時の来るのを待ち
時の過ぎ去りしことに
思いを残し
今を忘れて
時の終わりを迎える」
人間は、物質の中に幸せを求め、ひたすら物質の世に対しての欲望に翻弄されて一生を終え、そのあと自縛霊となるか、物質の世を通し、魂としてより成長することを学び、魂としての、心の安らぎを幸せとするか、二者択一で、どちらにするかは、自由である。
己を救うのは己自身
たくさんの人は、日々の生活の中での語らいは、友人・知人にかかわらず、それぞれ人のうわさか、他人を誹謗するか、他人のことばかりに向けられています。
「人を知らずして、人を語らず、己の心を正し。今の一秒を最高の喜びとせよ」
少しくらい、このくらい、私たちだけは、私だけはという安易な思いが、大きく道を誤るもとになるのです。
これが一般にいう信仰する人々に対してのお坊さんや牧師など宗教職業者(専従者)の言葉でしょう。
これほど、人の心を偽った言葉はないのです。
こんな組織に何万人も人が集まったりしています。そしてこの組織を狙っている政治家もいます。
肉体五官をとおして、この世で自分のピンチを救えるのは、自分自身で、そのピンチの原因を作りだしたのも自分自身でることを知らなければなりません。
もし人間で、「我は神である」と口走るようなものがいたとしたら、それは、悪霊にコンタクトされて、増長慢となっている、あわれな人間の姿です。
どんなにピンチにあっている人でも、心をしっかりもたないと、つい騙されてしまいます。
終いには、金や物、そして心まで搾取されてしまいます。
幸福と業
他人の欠点は、よく目につくものである。
自分の欠点は、なかなか分からない。
分かったところで、かえってそれを善いところと思いたくなるものです。
仏の教えは実にかんたんでわかりやすいものである。
ただ、自分自身のことのため、自己本位的な我の心が扉となり、精進の心を邪魔し、行為そのものがどのようなものであるかが分からず、そのためむずかしいものとなってしまうのです。
仏の教えは自ら生きる道を切り開いていく教えなのです。
自力そのものです。
仏は「実践のない正法は、ありえない」と教えられています。
この世に生まれ出たものは、どんな人間でも、ピンチがないものは、一人としていないのです。
「一難去ったら、また一難」がこの世の常で、このピンチを乗りこえてゆく中に、人生の理が秘められていることを知らないといけません。
物事には、どんなことにせよ、原因があって結果があります。
この結果がピンチなのです。
人間は、他力的になると、まず考えるのは宗教・易・占い・拝みやと、てっとり早く、どうしたらいいか聞きにいく。
しかしそのピンチはあくまでも自分が作りだした、自分が乗り越えなければならないものなのです。
若者の親たちが、子どものことよりも、
うそぶく母まで出てくる。
まったく心不在の世の中になっています。
そして人間には「類をもって集まる」という法則があり、良いも悪いもそれぞれの状態を、自分に引き寄せているのです。
幸・不幸のもとは心にある
ものに執着してしまうと
これは自己保存の心が広がっているのです。
こんな時は、孤独感が広がり、小さなからに閉じこもろうとします。
自分の思いに反することはすべて自分以外のせいにしてしまいます。
あの人が、あの時が、あの所がとすべて被害者意識になし、自分の周囲で起きていることは、一々気になり、他人が話をしていることは、自分のことではないのかと思うようになります。
自信がなくなり、己の心に負けていることに気づきません。
人間の心には、このような欠点があります。
他人に注意されれば、理屈を言う、理屈は、やがて愚痴になります。
こんな時は、上を見てもきりがなく、下を見てもきりがない。
ひがんだ心になっているので他人を見ると、幸福そうに思えてしまいます。
ほんとうは、幸せそうに見えていた他人でも、四苦八苦の生活うぃしているかも知れないのです。
精神的にも物質的にも、他を比較をすれば
両極端に思うものです。
足る心を忘れ、足元を見失っていることが多いのです。
人間一人ひとりこの世で同じ道を歩んでいるものは誰もいません。
本来、幸福とは、どんな階層の人でも味わえるものです。
それには互いに協力協調し、共に楽しく生きていくことで、一つ一つの善なる想念行為の積み重ねが幸福という至宝に行きつくのです。
人里離れた山中や滝で修行などしてもそれは現実逃避で悟ることなどできません。
業は性格です。
人の性格とは、その人生を幸福にしたり、不幸にしたりするもとを成すのです。
これは「無くて七くせ」というように一人ひとり多くの欠点を持って生きています。
本来、心は広く、人の過ちを許し、人の話もよく聞くことができ、人に対しやさしく接する。
これが誰の心にも内在されています。
この心を生活の中に湧現して行うことが幸福へのただ一つの道なのです。
人間の悩み、苦しみは「生老病死」がもとになっています。
地位・名誉・財産・健康に恵まれていると感謝の心を忘れ、それらが当り前になって謙虚な心を失います。
こうなると周囲が見えなくなり、思いあがり、増長慢となってゆきます。
しかし欲望の果てにはいつどうなるかわからないという不安がつねにつきまとい、失うまいという執着心で心は一杯になりま
す。
また何かと進んで他人に尽くす人も多いです。
ところが、「せっかく、あれだけやってやったのに、挨拶にも来ないし、顔を見ても〝あの節はお世話になりました〟の言葉もない。どう思われますか」とこんなことを言う人もいます。
こんなことを言うくらいなら最初から世話などしなければよいのです。
これは、うぬぼれが強く、「私が、私が」というお節介で、でしゃばりで、もっとも人に嫌がられる性格で、自我の強い人なのです。
これは最初から自分で苦しみの種をまいているのです。
不幸になるには、不幸になる原因が、必ず存在します。
人の一念
仏教に「末法」ということがあります。
お釈迦さんが亡くなってから
今、お釈迦さんがなくなって2,500年…。末法時代です。
仏の名を名乗ったり、利用したり、人の意識・心を利用して己の欲望をとげようとする者が現れて多くの人々の心を惑わせ、狂わせる。
仏の教えは人々の心から消え失せ、心不在…なにごとも、物、もの、モノ、金、かね、カネの世となり、人間の心は、自然に対してもすべてが我が物のように扱い、動物・植物・鉱物など地球上の生き物はすべて必要な存在であるのに、次から次へと破壊し、殺戮し…やりたい放題です。
この世のものは、すべて瞬間的には「ある」と思うだけで、実際は幻であり、自分とばかり思っている肉体であっても、時が来れば、大自然に還元され原素にもどるのです。
この世が終われば後から来る後継者のための場を譲ることでもあります。
これができなければ自縛霊となるか地獄霊となってこの世に残って子子孫孫に迷惑をかけ何百年も物質界(この世)という、あるようでない幻にしがみつくようになるのです。
足るを忘れる
正しく生きる道はきびしいものです。
ところが面白い、楽しい、自分勝手なことができる道には、大人も子供もすぐ入ってきます。
「魔のささやき」は、誰の心にもすぐ聞こえます。
これに乗っかってしまうととんでもない所に連れていかれます。
これは己の業によって起きているのです。
他人のせいではありませんね。
戦争が終わって、大学生が金融会社を作りました。
それに、欲深い人が出資しました。
でも失敗しました。
この大学生は若くして自殺しました。
次に保全経済会というのがでてきました。
これも短期間で破産をして「金かえせ」と大騒ぎになりました。
そして豊田商事という詐欺の事件がありました。
次に信用組合というのが現れて大阪も東京も大騒ぎになりました。
こんな事件は、その都度、さんざんな目に会ったにもかかわらず、少しばかりの利息の良さに、心の中の欲という怪物が現れ、大事件になってしまっているのです。
お金を預かる方は、自分のお金のような気持ちになり…またこんなところにも政治家が出てきたりしています。
この世には、詐欺を当り前にやって幅をきかす、他人のものを騙し取り、もっともらしく生きている人間が、どんなとことにもいます。
仏の教えにあります。
「失うものを持たない者は、本当に幸福なのです」
現実逃避は邪道そのもの
人間は、なにごとにも自分に都合の良いものは、他と競っても、拾うものです。
本来は、この世は拾うものではなく、捨てるものです。
仏の教えは心の修正です。
業という、己の心を苦しみ悩ます原因を捨てることなのです。
自分の足元を、しっかりと固め、他のために、少しでも、尽くせるようにならなければなりません。
神とか仏とか言って、一般社会より遠く離れて…また霊的な欲望を持つ…
これは危険きわまりなく、正しいものではありません。
世を捨てるなど、どんな理由があってもあってはならないことです。
人間は自らが作りだした苦しみ悩みを他人のせいにして逃げようとして、他力信仰に救いを求めたり、超能力を得ようとしたりします。これは心の弱い人です。