流れ
太陽と月、地球の自転と公転、満潮と干潮…。これぞ寸分の狂いもない、自然現象です。
人間は、満潮の時の潮に乗り、その姿を現し(誕生)、苦楽のドラマを経験し、時が来れば、干潮時に起きる引き潮に乗って、その姿を消してゆく(死亡)のです。
これらの秩序は整然として何ごとも運行されて行きます。
キリスト教の旧約聖書にある「アダムとイブ」は、人間誕生の話です。
魂は、この地上が調和されるまで、高次元(四次元以降)のあの世と、三次元の物質の世を神の子として、永遠に生き続けていくのです。
人間、一人ひとりの今日は、過去の生きてきたすべてを総合したものなのです。
最近は、文明の流れについてゆけずノイローゼになるエリート社員が多くいます。
幸せのもとは、一人ひとりの心の中にあるのです。
仏教の経文「摩訶般若波羅蜜多心経」の最後に羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訽
これは「行こう行こう彼の岸へ、彼の岸へ行けるもの、栄あれ」と言っています。
この世の持ち時間が終わったら、彼の岸、極楽、あの世、この世に生まれてくる前に住んでいた世、魂としての自分のグループの住んでいる我が家に帰ろうと、仏が諸々の衆生に、言われている言葉なのです。
生まれる、生きる、死ぬとは一体何なのでしょうか。
「生は寄なり、死は帰なり。己のものは何もなし」
自然と人間
宇宙の中の、太陽系と言う星の集団は、太陽を中心に、一定の時間で同じ方向に運動を続けています。
この地球という天体を縁として、神の意である大調和という目標を担い、四次元と三次元を輪廻している、私たち人類の源である霊団があります。
これをアガシャー系霊団と言います。
この地球という天体は、太陽を中心にした太陽系の各天体、そしてこの地球、そして霊としての人類が、より調和された霊団に発展するための、修行の場、大神殿なのです。
太陽は、東から出て西に入ります
。春夏秋冬の四季があり、時期が来れば、植物の花は咲き、実がなり、種となり、地に入り、明年またその美しい花となり、同じリズムを永遠に繰り返している。
山には林があり、鳥類・動物がおり、平野には田があり畑があり、鳥や動物が住んでいる。河川があり、風が吹き雨が降り、動物・植物・鉱物は、すべて相互関係を持って、生という運動をし、それぞれの目標に向かって、永遠に生きています。
人間は自然に対し、謙虚な心がなければならない。
理論と行為
中国のお話しです。
中学生の娘が、池でおぼれた。
友だちは、救いを求めて、近くにいた大人に「今、友だちがおぼれています。助けてください」
二人三人、誰も見向きもしてくれなかった。
ようやく話に乗ってくれる人がいた。
だがこの人、「いくらくれるのかね」と…。
「くれればいってやるよ」
「払うから早く来て」
「どこで払ってくれるのかね」
ようやく現場の池に、助っ人と共に到着した時には、もう当人の姿は、池の底であったそうです。
今の日本にもあるのではないでしょうか…。
紀元前200年頃、中国に秦という国を建国した始皇帝という人がいました。
その皇帝の家来に韓非子という法律の専門家がいました。
この人が「国民が学問をおさめると、理屈をいう者が多くなり、汗水流して働く者がいなくなる。働き手がいなくなれば国が亡びるより仕方がない」と。
理屈になると、行動という、行為が伴わないことが多いのです。
自然の中は、行為があって何ごとも成り立つようにできています。
自然と人間の係わり
人間は、人間だけで生きることはできません。
動物・植物・鉱物すべてのものと共に、人間は万物の霊長として、それらを支配し、神の経綸のもとに、生かされ、生きているのです。
すべてのものと共に、協力、協調、神の意である、大調和という大目標に向かって、地球を軸に物質の世三次元と非物質の世四次元以降を転生輪廻を繰り返し、永遠の旅を続けています。
人間はそんな話をわかっているのかいないのか…物がすべてと、物の中に埋もれて、物欲のみとなり、自己保存、自我我欲、勝って気ままな行為をする。
今の人間社会の文明とは、元々は協力・協調すべき大自然を、人間のみの、より便利な生活のために、破壊し作りだしたものです。
天変地異とは、すべてその土地に住む人々の、業想念によって起きています。
そして、人間の意識・心に神仏が降臨など絶対にしません。
神仏はすでにすべてを与えておられます。だから人間が自力でがんばるしかないのです。
人間は、自然に対しても、お互いの中においても謙虚を忘れてはいけないのです。
神と仏と人間と
神とは、大宇宙を創造された意識そのものです。
仏は神の意をたいし、すべてのものに、生きる術と理を説くために、この地上界に必要に応じその姿を現し、教え導かれておられるのです。
一方、人間は、この世の存在の理など思いもよらず、自分中心のものの考え、何事も楽しく、面白おかしく、時を過ごそうとする心の領域が、知らず知らず広がり、自分本位で無責任な社会を作っています。怠惰です。
反面、
悪魔の心と仏の心が絶えず、競り合っているものです。
この世は、有形・無形の苦しみが非常に多いものです。
しかし怠惰は落伍するものです。
苦しみの原因を知ることがまず大切です。
人間には欲があり、この欲によって心を見失うようにできているものです。
この欲に負けない心を培うことが仏の教えなのです。
それには、
この業の修正こそが苦しみを乗り越えるただ一つの方法でこの世でやらなければならないことなのです。
こうした苦しみを自らの力で解決することなく、宗教というものに逃げ込んでしまう人がたいへん多いのです。
日本だけでも20万とも30万ともいう宗教団体があるようです。
人間が神になれる訳など、絶対にありえないことを忘れてはいけません。
仏の教えは、大自然の法則と、人間の生きるための法則との、大調和で、大自然と人間の一体化で、人間の日常生活のあり方は、太陽のように、慈悲の心の顕現と、愛の実践行為です。
今世に生きるとは、生き通し生きている中での今世を、己の怠惰する心に負けず、他を憎まず、お互いに励まし合い、有意義な人生を送ることです。
仏の手のひら
人間の社会は、権力者や支配者がおり、権力や支配力を強くするため絶えず示威行為をする。
その関係のものも、自分を売り出すためにこのものたちに、へつらい、ついてゆく醜い姿をさらけ出しています。
こんな中から階級制度ができその犠牲になる者が絶えないのです。
これらの犠牲者に手を差し伸べるものも現れるが、こんな中にも、何々に手を差し伸べてやった、こうしてやったと行為を心にもつようになるのです。
奉仕活動にしても、一時のみであったり、相手を考えずにことを運んだり、知らず知らず思いあがり自己主張をするようになるのです。
自分の主張ばかり通そうとしたり、自分の幸せばかり考え、自分以外のものに対しては、一切関心を示さない人間が多くなり、自分に都合の良いことには、にこにことし、都合の悪いことには、見向きもしない。
これが現代の大方の人間の姿なのです。
人間自分ひとりの幸せなど、絶対にありえないのです。
物質界では、単体での生存はあり得ません。
人間一人だけでは生きていけません。
人間だけでも生きていけません。
不安・恐怖の原因
人間は、誰でも絶えず心に安らぎを求めているものです。
人間は1秒の間隔もないくらい想念の中で
その中に明るいことは出てこない。そうしたものがいつしか不安となり、恐怖心を作りだすのです。
そうした思いは次から次へと心の中をかけめぐります。
終いにはその思いの虜になってしまいます。
大方の人は、その心の憂いさから逃れ、余暇を見つけては
あらゆるレジャーを求めていくものです。
世の中は、一つとして独立しているものはないのです。
すべて何らかの連なりを持っています。
またこんな不安や恐怖の解消を巷の宗教に求めて組織に入り、
その細胞となり大きなゆがみを作り、
家庭や職場まで捨て、社会生活を拒否する人までいます。
これは完全な社会の落伍者です。
物事にはすべて原因があって結果が生じています。
その原因はそれぞれ自分自身の心の中にある、業が作りだしているのです。
心の中には常に善と悪が競り合っていて悪が勝ってしまうことが多いのです。
人間は勝手なもので、金や物が大切で、それが安らぎと錯覚をし毎日毎日、欲望に追われ神仏の道を大きく外れ、心に不安と恐怖を作りだしそれに翻弄されてこの世の終わりを迎える人が数多くいるのです。
不安・恐怖を克服するには
人間それぞれの一生は、苦しむため、悩み、迷うためにあるのではなく、苦しみ悩みの原因となっている業の修正のためにあるのです。
人生には不平等はありません。
それは人生の理を知らないから出る言葉でしょう。
人生とは何か?
と追求してみるくらいの心の余裕が欲しいものです。
この世の肉体は、この世が終われば、健全な霊となります。
肉体はこの世限りの表現体で60兆という細胞の集まりで収縮と分散と、永遠の縁生をとおして共に生き続けているものなのです。
この世はほんのわずかな時間なのです。
そのわずかな時間の中で成さなければならないものがあることを知らなければなりません。
業の修正のために「反省」をしなければなりません。
ただ、形だけの反省なら猿でもできます。
業の修正という実践行為があって初めて反省になるのです。
多次元(あの世)からすれば今現在、自分の周囲にあるすべてのものは、一切存在していないのです。
人間は、中道の精神での生活が、もっとも大切で、互いに他を生かし、助け合い、補いあう精神をもち、生きることです。
怠惰と無責任
人々は、この世は金や物がすべてである。
それが幸福にするものであり。
思っているものが多いのです。
こうした思いが、当り前であるとの考えが充満しているのが、現代の世相です。
人の心には絶えず競争心が湧き、
そして権力者が現れる。
平和…。しかし物質の中は、争いが少しでもなくなれば人の心から緊張感が失せ、
怠惰に流れ、秩序、規律、節操など、この世に必要欠くべからざるものはすべて激流に翻弄され、
その姿は、あたかも、「ありとキリギリス」の童話のキリギリスのようになっています。
人々は
止まるところを見失ってゆく。
子供たちもアルバイトで金を稼ぐ。遊びに使う金を…。
金、かね、カネという思いのアルバイトである。
責任などの言葉すら知らない者が多くなってゆく。
学校では、子供たちの進学のときに、担任の先生が子供の受験校を決めるので、
なぜだか聞いてみると、子供ではなく、担任の先生の成績に関わるということであった。
先生は年輩になり、教頭になる。教頭になったら校長になりたい。
どんな手を使っても必死で校長になろうとする。
それは退職金がちがうから。
校長になって赴任をする。
赴任先での第一声は、「私の在職中は、何事もなく終わるように、余計なことはしないように」だと言う。
PTAの会があれば、子供たちの会ではなく、大人たちの会となり、
二次会、三次会となるらしいから、
今の学校のあり方に疑問を持つものだ。
こうした中で育つ子供たちは、
身勝手な心を作り、責
任などという言葉さえ知らない子供たちが非常に多くなるのではないでしょうか。
家庭では過保護で育てられた両親が、自分が産んだ子供を捨ててしまったり、
子供にも金や物さえ与えていれば良いと思っている。
子供も金さえくれればいいと…、親の言う事など聞かなくなる。
親は困って、他人に自分の子供の教育を依頼する。
親の権威など、どこへやらである。
学校へ行っても先生のいう事など聞かない。
先生というものは、人間としての常識くらいは子供に教えなければならないのに、先生がその常識に欠けているありさまである。
神仏は頼り縋るものにあらず
この世の宗教は、人間が作りだした、木物や金物の仏と称するものや、お札を拝んだり、祀ったり、他力信仰でしかない。
俺は神だとか仏だとか言いだすものまでいる。
仏教やキリスト教もいつのまにか哲学になりそのための学者までいる。
「この世は、魂としての人間の心の修行場であり、万生万物の根元は、四次元以降の心の世界に存在するものである」と仏さまは教えてくれています。
しかし人間は、自分の生活が、思い通りのときは、神や仏を思いもしない人が、非常に多い、
神や仏は困ったときに救ってくれるものと思っている。
困った原因を知ろうなどと思ってもいない人が多い。
人間この世の苦楽・幸不幸すべては、結果であり、
必ず原因があることを忘れてはならない。
人間困ったときに、救ってくれるのは、
神仏の子である、己自身の全なる心であることを知るべきである。
心の裁き
「いつどんな時でも、たとえ相手が、どんな人物であっても、争いの心を起こしてはならない。それには、まず論争をしてはならない」と仏様は教えています。
感情の起伏によって、理性というブレーキがきかず、心に不調和を来し、恨みや憎しみを作りだしてしまうことがある。
世の中は、平和になると、物が豊富になり、働くことを嫌うようになる。
カードで生活している人もいると聞きます。
人間は、勝ってきままなことを言い、行動する。
そして身勝手同志が意見の相違から争いを起こし、殺戮を引き起こす。
権力者が現れ、規律をつくり自分の欲望を満たすだけの結果を生んでいく。
これらに対する疑問くらいは抱かないと生きている意味がない。
死んだら終わりという人に限って、死後のことが気になったり、
死ぬ瞬間はどのようになるのだろう、と思っている人が意外と多いのです。
こうした思いは死にたくない、という欲から起きているのです。
「閻魔大王」とは、自分の真我なる心そのものなのです。
この世の全てを反省し、魂としての自らを決裁し、
この世を終えた後の行く先を決めるのが魂としての掟なのです。
どんなことがあろうとも、己以外のすべてのものは、
己自身の心をより浄化するために存在しているものであり、
心の糧として受けとめられればこれ以上の幸せはないでしょう。
よくこの世を去った者を仏と呼んでいるが、
「仏」とはすべてを悟った人をうのであって、
この世に執着しているような人の魂は亡者と言います。
すべては神の創造物
地球のどこかで絶えず、民族間や思想や意見のちがいで争いは消えない。
権力者は心を魔に売り渡し、もっともらしい理屈のもとに大衆をい支配してゆく。
神理はただひとつ、善・光明そのものであり、悪魔は、人間それぞれが、心の中に勝手に作りだしたものである。
人間は、神から与えられている、自由・創造・反省のうち反省くらいは実際に行う気持ちがないといけません。
反省とは己の心の浄化をはかる第一歩で、長い転生の過程で重ねてきた智慧をひもとく第一歩でもあり、
反省と懺悔のそれに対する行為は、心に新たな希望と勇気を作りだす、言動力となる。
この宇宙の中には、人間の創造にも及ばないものが、大自然の中に厳然として存在しています。
人間の手の届かないところに、
人間はじめ宇宙に点在している60兆という天体、
その他生き通し生けるものは創造主なくして存在しえないものである。
それこそが神であり、創造されたのは意図があってのことだ。
それは宇宙の大調和なのです。
仏の教えは大衆のもの
仏の教えを最も必要とするのは一般大衆である。
しかしその教えは
これこそ「末法」のありさまである。
大衆も仏教は死んだもののためのものと思っている。
キリスト教は教会で結婚式をするためと…。
日々の生活に仏もキリストも関係ないと思っている。
ところが生活の中で悩み苦しみが起きると、神や仏を頼る。
ここに他力信仰が現れるのである。
人間は誰しも、神の子として負わされている宿命がある。
それは神の意にそった生活を通し、この地球上に、仏国土・ユートピアを、築くことのあります。
また、運命というものがある。
これは、それぞれの環境・境遇の中で、
己自身が作りだすものであり幸も不幸もすべて、己の心のあり方、行為によって現象化するものなのである。
悪しき業に負けてはならない。
神仏は頼るものではなく、拝むものでもない。
神仏は敬うものである。