「心の旅路」第2巻-調和への道― 朽木丈人 講話集

ポイント

各ポイント詳述…

一行三昧

 

一行三昧とは、悟りの境地のことです。

心の豊かさ=安心とおいことです。

 

今の1秒の行為という一つの行いが本当に素晴らしい自分というものを作り上げていくのです。

 

しかし、山に籠っても、仏さんの前で何百回頭を下げても悟れないのですね。

 

私たちは、人間として生きて行かなくてはなりません。

私たちには、神が決められた「理」というものがあります。

 

道徳があり、秩序があります。

そういうものをしっかりと守って、ほんとうに万生万物すべてのものが、

お互いに手をつないで、自分がいるこの物の中を一所懸命生きていくことが大事ですね。

 

それを「宗教」というのです。

 

物ではない、地位・名誉・財産ではない。

格好でもない。

本当の事を…。

 

自分の環境でより明るく生きる。

ただこれだけのことです。

 

「人間は心を浄化し、心を明るくし、大調和に向かって、

私たちは今生き続けています」

 

魂は永遠に生き続けています。

魂は生まれるとか、死ぬということは関係がないのです。

他力化した仏の教え

 

この頃はみんな「ローン」でものを買う。

キャッシング?ですか…。

あとでたいへんなことになります。

 

やはりそれぞれ、自分の環境を見て

「私はこれくらいで、丁度いいんだ」というものがあるのです。

 

ところが足元を忘れ、人の物を見て。

「私も…」と、こうなってくるんです。

それが苦しみを作るのですね。

 

こういうことが本当にわからなかったら、

お釈迦さんの話をいくら聞いてもわかりません。

 

立派な言葉をズラーっと並べて「ああでもない、こうでもない」と言っても、

読めてもわけがわからない。

聖書と同じですね。

 

私たちは、まずよーく自分の環境を見て、

その中で自分はどういう心の持ち主なのか、

そういうことをまず知るべきです。

 

そうしたら

  • 「今、苦しんでいるのは自分なんだ、
  • 今までは他人のせいにしていたけれど、
  • そうではないんだ」

ということがわかってきます。

妙法蓮華経

 

天台宗のお経に「妙法蓮華経」というものがあります。

南無妙法蓮華経というのもありあますが、あれは「南無」を日蓮さんがあとで勝手に付け足したんですね。

 

「ナムミョウホーレンゲキョウー

♪ナムミョウホーレンゲキョウー♬」

とやってますが、

 

「これはどういう意味ですか?」と聞いてもなかなかわからないようですね。

 

南無をつけたら呼びやすいからつけたんですね。

 

本当は、「妙法蓮華経」ですね。

 

「南無阿弥陀仏」とういのもあります。

当時は、戦乱の世の中で、人々が理解できなかったから

「拝めば救われる」

「唱えれば救われる」

というふうにしたんですね。

 

これは大きなまちがいで、みんなを他力にしてしまった。

法然さんも、親鸞さんも、日蓮さんも…。

 

そして「お釈迦さんは、どういう人で、どうなって、こういう事をした人です」と…。

それを分かって、何かなりますか?

「そういう人の話を実行しなさい」ということなんですね。

毒矢の譬え

 

お釈迦さんさんの話の中に、

『毒矢の譬え』というのがあります。

 

毒矢が当って苦しんでいる人を助けようとすると…

その人が

  • 「どこから飛んできたのか、
  • どこのだれが放ったのか、
  • どうだこうだ…
  • それがわからなければ矢を抜くな!」

と言っている間に死んでしまった。

 

これは、みんな屁理屈ばっかりでやらないということを言っています。

文明社会の歪み

 

今の文明というものも「文明だ文明だ」と何もかも便利で「これは良い」とうやっていたら、知らないうちに自分の全なる心を、魔の世界に売り渡していたなんてことになりますね。

 

私たちは、それぞれの生活の中で環境・境遇が全部ちがいますね。

 

でもみんな文明に翻弄されてしまっています。

政治家、医者、学者、お坊さん…みんなそうですね。

 

しかし心の話をしても彼等は改めようとはしませね。

だいたいの人は…。

 

「三者一坊」と言います。

これは、

医者・学者・役者・坊主のことですね。

 

世の中の「ろくでもない輩」という意味です。

甘い汁を吸ってのうのうと生きている輩ということですね。

 

みんな羨ましがりますが、実は逆なんですね。

何も悟らず暗いところへ帰る人がイチバンたくさんいるのですね。

 

こういう人たちに…。

世の中、名誉や地位や財産じゃないんですね。

 

そういうものを見て、

自分の心の中に本当に光明の世界を作っていかなくてはいけないということです。

 

本当に心の中に仏国土を持たなかったら、

私たち人間は地球に住めなくなります。

 

天変地異で地球が駄目になってしまいます。

「自分は善だ」と思っていても、

みんなと一緒に駄目になるかもしれない。

 

そして、それでもがんばる自分でいなければいけません。

たとえいっしょに駄目になっても…

 

本当に自分の心の世界を知っていれば別にどうとうことはないのです。

お盆の由来

 

お釈迦さんのお弟子さんのマハー・モンガラナーさん(コリータ=大目蓮)という人のお話しから来ています。

 

モンガラナーさんが、お釈迦さんの話を聞いて、一所懸命に心を磨いていったら、心の世界のことがわかるようになり、あの世まで見えるようになりました。

 

そしてモンガラナーさんは、自分のお母さんがどこにいるか見てみました。

 

お母さんが出てきました。

「お母さん!懐かしい!」

「コリータよ!私はのどが渇いてしかたがないんだよ。水を一杯おくれ」

モンガラナーさんはすぐに湯呑にお水を入れてお母さんに渡しました。

しかしその水はすぐに火になってしまいました。びっくりですね。

 

モンガラナーさんは、お釈迦さんに聞きました。

「私は亡くなった母を呼んでみました。

母は水が欲しいというので、母に水をあげようとすると火になってしまいました。

あれは一体どういうことなのでしょうか?」

 

お釈迦さんはこう答えました、

「あなたのお母さんは、生きている時に、他人のことなど一切考えないで、

自分のことばかり考えて生活していました。

気の毒な人に何も恵んであげず、人からの布施ばかりを望み、

一生を終わってしまったために、今は火炎地獄に落ちています」

 

モンガラナーさんは、お母さんを救いたいですね。

そしてお釈迦さんにどうすればお母さんを救ってあげられるか聞きました。

 

  • 「あなたは1年に1回でもいいから、
  • 母親のかわりに自分のものを全て出し、
  • 困った人に布施をしなさい。
  • そして私が教えた話を自分がやってみて、
  • それが本当の道であることがわかったら、
  • 人にこの話をしてあげなさい。
  • それも布施なのです。
  • 言葉で教えた心の世界というものを人に伝えるということは、
  • 物をあげるよりも素晴らしい布施になるのです。
  • そうしたら、あなたのそういう行為を見て、お母さんも自分の過ちに気づき、救われる時が来るでしょう」

それが、お盆の始まりなのです。

神仏とは何ぞや

 

私たちは、肉体をとおした五官

(眼、耳、鼻、舌、身)で

  • 「神を見よう」、
  • 「神の声を聞こう」

と思うんですね。

 

  • 本当に聞こえますか?
  • どこにいるんですか?
  • どんな姿をしているんですか?

 

巷には、

  • 「俺は神だ」という人もいる。
  • 「私は神を見た」という人もいる。
  • 「神の声を聞いた」という人もいる。

 

神というものは、私たちの五官では絶対に捉えられないです。

声を聞くこともできないです。

 

私たちは、神の体の中にいて、神に生かされているからです。

 

この私たちが住んでいる所で、人間が作ったものがありますか?

 

ビル?…ビルに使っている物・材料は人間が作りましたか?

人間がただ組み合わせているだけです。

水は?…水道局は浄水しているだけですね。

 

私たちは自然というものをもっと真剣に考えなくてはいけないですね。

神は、私たちを生かし続けている「意識」なのです。

 

生きていくために…

  • 空気はある、
  • 風はふく、
  • 太陽がある、
  • 地球がある。

これは誰が作ったのですか?

地球以外の天体も人間が作ったのですか?

あれも物ですね。

 

神仏の中に自分がいる、自分の心の中に神仏はいるのですね。

 

私たちがこの世的に信仰しているのは何でしょうか?

-みんな物質欲の信仰ですね。

 

みんな物を得たい、

とか幸せになりたいとかいう理由で行くんじゃないでしょうか。

 

心とは、一体そこにあるんでしょうか?

心とは仏さんの教えですね。

 

仏さんは何をしに出てこられたんだろう…。

仏さんとは、神の意を体して、この世に肉体を持ち、

私たちに「神の道を教示」するために出てこられてた方なんですね。

 

そして、その(仏さんの)教えを実行するのは、それを聞いた私たちなんですね。

 

仏さんは、手をのばして

「ああですよ!こうですよ!」と最後までやってくれません。

それは魔物です。

 

そしてその善と悪は自分の心の中にあります。

  • 〝やさしく微笑む悪魔、
  • きびしく叱咤する菩薩〟

がほんとうですね。

正法

 

  • 正法とは…
  • 大自然の循環の法則
  • 神の心
  • 慈悲と愛の行為

です。

 

ほんとうは、お坊さんとか、牧師さんが、これを私たちに話するのです。

 

ところがそういう中にいると派閥とか対立とかあってほんとうの話ができなくなってしまうんですね。

 

ですから大天使という人は、宗教家の中には出てきません。

 

宗教的なところは、戒律があって知識的なものに埋没して

それを打破できないから真実から遠ざかってしまうからです。

 

お釈迦さんの話が

  • 哲学で一般の人にわからなかったら、おかしいですね。
  • お釈迦さんは、奴隷から労働者、王様まで、いろんな人に人間の生きる道を説いたわけですね。
  • 無学文盲の人々にもわかるように話をされました。

 

だから仏教哲学なんてありえないんですね。

学者が勝手に作りだしたのですね。

 

お釈迦さんは、宗教家ではありませんね。

小さなお城の王子。

イエス様は大工さんの息子。

モーゼさんは、奴隷の子供。

 

私たちは、本当の心を教えることえおはどこにあるんだろう

―それをよく知らなければなりません。

 

私たちはまず、そういうことを知らなかったら、

いくら仕事をしても、今度は仕事が欲望になってしまう。

格好いいことを考えてしまう。背伸びしてしまう。

これ虚栄心ですね。

 

私たち人間は、背伸びしたらおしまいですね。

 

謙虚にものごとは、考えないといけないのです。

業というもの

 

「執着」とは、

  • 苦しみとか、
  • 迷いを起こす

元です。

 

これは「こだわり」です。

人間は、物事にこだわるんです。

 

こだわりは「煩悩」から起きます。

煩悩とは、肉体五官(眼、耳、鼻、舌、身)です。

五官によって物、物、物に振り回されて、煩悩を作りだすのです。

 

苦しみはすべて煩悩が作りだしています。

その煩悩を作りだしていりものが「業」です。

 

自分の苦しみを無くすにはどうしたらいいのでしょう?

  • 「私、〇〇会とか△△宗に入って、今、南無妙法蓮華経を一所懸命やってます」
  • 「私、南無阿弥陀仏をやってます」

…教団に入って拝みに行く。

 

そういう所で救われたら、

世の中には医者も学校もいりませんね。

 

自分勝手なことをやって、上手くいかなくなった、

困ったら、そこに行けば救われる?…おかしいですね。

 

であれば、「業」をどうします?

-これを修正しなければいけませんね。

 

自分の悪い所を修正する。

自分の足元を見るのですね。

 

自分のことは見ないで人の事ばっかり見ると、

自分のことは、できなくなります。

 

生まれてから今の歳まで、

よーく自分のことを振り返ってみる。

 

どういう事があって、そういう苦しみを作ったのか…。

 

反省ですね。

己の全なる心を信じる

 

何を信じるのか…

 

「やろうかな?やるまいかな?」

ということは、信じるものがないからですね。

 

信じるのは五官で信じるんじゃなくて、

自分の心を信じるのですね。

 

お釈迦さん、仏さんの話を聞いたら、

幸せにならないといけませんね。

 

仏さんのために拝むとか、

仏さんのために集まるとか…

 

そんなことお釈迦さん、仏さんは一切言っていません。

 

話の内容を信じることですね。

 

それは自分の心を信じられるようになりなさいということなんですね。

阿弥陀如来

 

阿弥陀如来とう人は、アモンといわれる方です。

天上界におられる大天使・上段階光の大指導霊です。

 

紀元前4,500年頃にエジプトで法を説かれた方です。

 

その教えが、

アフリカ・ギリシャ・インドと

 

年数、国を経ていくうちに

「アミー」という名で伝わってきたのです。

 

「白い三画の布」の話

 

お釈迦さんのお弟子さんに、ビンビサラという、マガダ国の王様がいました。

王様夫人はイダイケという人でした。

王子はアジャスターという人でした。

 

このアジャスターさん、ダイバ・ダッタという人にだまされて王様を牢屋に閉じ込めてしまいます。

もちろんイダイケ夫人はなげき悲しみましたが、どうすることもできませんでした。

 

そして王様がせめて元気にいられるように毎日食事を隠れて運んでいました。

 

するとそれが、王子にばれて夫人も牢屋に閉じ込めてしまいます。

王様は牢屋で亡くなってしまいました。

 

夫人は王子に「アジャスターと、父王が亡くなった今、わたしはもう何も欲するものはない。

ただ死ぬ前にゴーダマ仏陀(お釈迦さん)のお話しを聞きたいので一度でいいから呼んで欲しい」と頼みました。

アジャスター王子はこの願いを聞き、お釈迦さんを呼んだのです。

 

そしてお釈迦さんはこのイダイケ夫人に話をしました。

  • 「人間は誰も環境がどうあれ、
  • 境遇がどうあれ、時が来れば、この世を去る。
  • これが大自然の掟である。
  • その行く先は、ここから西の方角の上空に、阿弥陀如来さまがいらっしゃる浄土がある。
  • そこに帰らなければいけないのですよ。
  • そのためには、心を浄化することです。
  • それは、他人に対しての恨みや憎しみ、妬み、誹り、怒り、愚痴、特に憎しみや恨みは、
  • 絶対に捨てないといけないのです。
  • あなたは王子のアジャスターを決して恨み肉親ではいけないのです。
  • そしてこの世への執着を捨てて、すべてを許せる心になることですよ。」

と話されました。

 

この話を聞いたイダイケ夫人は

  • 「仏陀の教えに帰依します」と、
  • 持っていた布を三画に畳み、
  • 前方に置き、
  • 額を深々とたれたのです。

このお釈迦さんがイダイケ夫人にしたお話しが

「阿弥陀浄土の教え」です。

 

そしてイダイケ夫人がおりたたんだ

三画の布が

「仏壇にあったり、亡くなった人の額につける三画の布」なのです。

三途の川-21日間の掟

 

「三途の川」というのは、川にたとえて、お釈迦さんがお話しされたことなのです。

 

一所懸命、稼いで物を買って、せっかく自分のものにしたのに、全部人にやってしまわなければならない…。

 

お釈迦さんは、

  • 「あなた達は、あそこにあるのは物ですよ。
  • 物を持っていったら、前に進めませんよ。
  • みんな物は捨てるのですよ。
  • 物を降ろしてごらんなさい。
  • 軽くなるでしょ、
  • 軽くなったら向うの岸に行けますね。
  • 降ろしているのは執着が作りだした大きな心のお荷物ですね。」

「私たちには、あの世があるんですよ。

あの世とは、こういう世の中なんです。

私たちは物の中で苦しんで、あたふたしているけれども、

あの世から出てきて、物の世界を通じて、自分の心をより浄化するんですよ。

 

心とは、いろんな時代のいろんな所を通ってきて輪廻しています。

生まれたり死んだりする(この世で言う…)

 

その中で、心を浄化しなければいけないような歪みが出てくるんです。

私たちは心の歪みが多いのです。

人は歪みの心を浄化(修正)するために生まれてきているんですよ。

そのためには、私の話を「実行」することですよ。」

 

と話されたのです。

 

この世の知識人という人は

「地獄なんてありませんよ」と必ず言います。

そういう人たちはみんな地獄に行くんですね。

 

人間は、この世=物質の世界から去って、あの世=非物質の世界へ行くんですが、

肉体から心と魂が分離してから21日間、この世に思いをおくことができます。

 

21日を過ぎてしまってまだ思いが残ってしまったら今度は、

ここ(この世)に縛られてしまいます。

そうなるとお化けになるんですね。

 

21日が過ぎて、すーっと帰った人は、修養所に行って、

もう一度自分を振り返ります。

そしてその反省をしたその自分の思いが自分の連れていく所を決めます。

 

「閻魔大王」じゃなくて…自分の心の中で思ったこと、

行ったことを見て、自分が決めるのです。

裁くのは自分の全なる心です。

 

そして修養所に行って反省する時間が、28日間。

精一杯の反省をして21日間+28日間=49日間。

 

今、お葬式のあとなどの法要で49日というのは、

この世の人が勝手に決めたことで、

これはあの世の魂としての掟なのですね。

 

法要の49日というのは、

線香をあげて悲しんだり、泣いたりするのではなく、

亡くなった人に、

 

  • 「ご苦労さんでした。
  • あなたの修養所の時間は終わりました。
  • あなたはもうここにいなくていいんですよ。
  • できたら明るい所に帰ってください」

と言うのが良いのです。

この世もあの世も約束事

 

私たちは生まれる78年前に、

両親と親子の約束をしています。

 

勝手に親が産んだなんてことは絶対にないのです。

 

また夫婦もあの世での約束ごと75億分の1ですね。

子供ができる。

 

これも約束事です。

 

その子供がその後を全部引き継いでいきます。

これが因果の法則です。

みんな約束事なのです。

 

宗教団体などで「あなた達は、選ばれた人で、大切な使命があります」なんて言っていますね。

 

嘘です!

 

どんな人でも、自分がやらなければならない目的と使命を神から与えれ、

この世の修行に出てきます。出たり入ったり…永遠にやっています。

 

  • 物、物、物で一生を終わる。
  • 死んで物やお金は持って帰れません。
  • 儲けたら、その分のいくらかを困った人にあげたらどうでしょう。

 

事業主なら、

働いている人に…、

そうしたらみんな喜んでもっと頑張るんじゃないでしょうか。

 

私たちは、そういうことを

  • 「これはこうだ!」
  • 「あれはどういうことだ!」

と知らなければいけませんね。

 

心を知らない人はみんな物の世界に流されてしまう。

  • 面白おかしく、
  • ワーっと踊りながら

行ってしまう。

 

心の世界は地味ですね。

つまらなさそうです。

 

でもほんとうは素晴らしいもの

 

自分というものを発見できるんですね。

千年に一度の人生

 

私たちは、永遠に輪廻を繰り返している。

 

ところが、この世にいる人達は、

「この前出てきた時は、これをやったけれども、よく出来なかったから、もう一度これをやらなくてはいけない」

と同じことをやっている人が多いんですね。

 

私たちはグルグル回っています。

この世に出てくる人は、

早い人で700年、

大体は1,000年か1,500年に1回です。

 

私たちのこの世での1年とは、あの世では100年にもなるものなのです。

そして、この世の素晴らしいところは、いろんな人と一緒に住めることなんです。

 

あの世に帰ったら、1人1人に心の段階があり、その段階、段階に人が住んでいます。

 

心の段階が1~9まであるとします。

1の段階の人は絶えず心の勉強をしています。

そして知りたいとこができると1の段階の頂点の人に聞きます。

 

もっと知りたいことになると、この1の頂点の人が2の段階の人に頼みに行きます。

2ではまた頂点の人だけが3の段階に頼みに行けます。

 

ふつうの1の段階の人は2の段階は明るすぎて見えないし、もちろん行くこともできません。

2から3、3から4…すべて同じです。

 

しかしこの世は、いろんな段階の人が全部ここに、1つの所に集まってきているわけです。

 

そして人間には波動というものがあります。

波動=振動です。

 

それによっていろんな人がつながっていくようにできています。

 

波動が本当精妙になれば、いろんな人と交われるのです。

心の浄化を図る

 

この世はたった100年。

そして次は1,000年か1,500年先…。

 

ですから今はもうチャンスなのです。

本当の自分自身を知るチャンスなのです。

 

今日1日、自分のやってことは正しかったのかな。

友だちに話したことは正しいのかな。

自分は会社で正しい行いをしていたのかな。

夫婦でどうだったのかな。

子供に強要しなかったかな。

子供にカッカカッカ腹を立てなかったかな。

 

…たくさんあります

こういうことをよーく、振り返ったら、

この世は、もっと素晴らしくなります。

 

一所懸命生きるということは、

自分の心というものを、より浄化した、

より光明に満たされた自分自身になることなのです。

 

「あぁあの人が来たら、本当に心が安らぐわ」と、

人に安ど感を与えられるような、

そういう人間にならなくてはいけないですね。

生まれてきた目的

 

「死ぬ」ということはありえないのです。

魂はどこまでも続いていくのです。

 

自分は、あの世の住人、

私たちは非物質の世界の住人なんです。

 

今、わずかな時間の中、この肉体という舟に乗って、

この物質界を見ながら、自分の心をより成長させるために、今いるのです。

 

 

私たちは、「終わる」ことがありません。

だから何千年も前の過去のことが分かるのです。

 

でも過去のことがわかることが目的ではないのです。

そういう過去の自分をとおして、

人間というものは、このようにしなければならない、とうことが分かるのですね。

  • 自然の理、
  • 自然の法則、
  • 秩序、
  • 規律、
  • 礼儀、
  • 節度を

守って生きていく。

 

こういうことにつきるということですね。

 

人間が生まれてきた目的は、

自然の法則に従った調和された自分自身を作ることなんです。

 

それを邪魔する「業」を修正する。

業とは「欠点」。

欠点とは「くせ」です。

くせとは「性格」です。

 

自分で生まれながらにして持ってきた性格

―これはなかなかわかりにくい。

 

自分が環境の中で作りだした性格

―これはわかりますね。

これを変えるのですね。

 

性格は、「変わります」。

勝手には変わりません。

変えるものです。

 

これをしないと世の中絶対に良くならないのです。

蓮の花は汚泥に染まらず

 

お釈迦さんの時代、古代インドのマガダ国あたりは、雨期があって、いたるところに水がたまって蓮沼が出来ていました。

 

この蓮沼の底にレンコンがあります。

そしてそこから芽が出てくる。

つぼみになり、葉になり、蓮の花になります。

 

これをお釈迦さんは、

  • 「あたなたちの肉体を見てごらんなさい。
  • 目くそ、鼻くそ、耳くそ、汗、大便、小便…
  • きれいなものが1つもないでしょう。
  • このどぶの中がそうですね、蓮沼の中は汚いですね、
  • しかしそんな中で蓮の花は本当にきれいに咲くのです。
  • どんなに汚い中にあっても、蓮の花・蓮の葉は染まらないんですよ。

 

  • あなたたちの心もそうですよ。
  • そういう汚い肉体舟を持っていても、
  • 心を浄化することによって、
  • 蓮の花のように美しく咲くことができるんですよ」

 

これは、

  • 「このどぶの中は、この世のことなんですよ。
  • みんな心の中で苦しんでいるんですよ。
  • この中でへばったら、水面(天上界)には出られません。
  • これはあなたたちの一生と同じなんです。
  • 人生、怠けてしまったら、そこで終わりですよ。
  • あなた達は、辛くて逃げたり、自分だけうまいことやろうと思ってもそうはいかないですよ。
  • そういうのはみんな駄目になってしまうんです。
  • お互いに協力して私たちは生きているんですよ。
  • 心の中で一所懸命に、協力・協調していったら、この花のように、葉のようになるのではないでしょうか」

とおっしゃっているわけです。

永遠の転生の中で

アミーの教え

 

仏教に、阿弥陀仏とうものがあります。

 

お釈迦さんがなくなって大分後の時代、

中国にテンシンというお坊さんが出て南無阿弥陀仏の教えを広めていきました。

 

このテンシンという人は、南シナの貧しい村に生まれ、6歳の時に村が大水で流されて自分1人だけになってしまいます。

 

あっちへ行き、こっちへ行きしてもらって食べたりしながら一所懸命生きていったのです。

そして大人になって仏門に帰依しました。

そこでお釈迦さんの話を知って、教えを中国全土に伝えて回ったのです。

 

  • 「ここから西の方に西方浄土という所があって、
  • アミーといわれる仏さんがおられた。
  • そして昔、このような話をされた。
  • 実は私たちもその悟られた方の教えが心の中にある。
  • だから人を困らせるようなことをしてはいけない」

と人々に話して歩きました。

これが南無阿弥陀仏の始まりです。

 

そして法然や親鸞が日本に広めたのです。

 

この南無阿弥陀仏のもとの話は、お釈迦さんがクシナガラで亡くなる前にされたお話しなのです。

この最後のお話しを聞いたのが、シバリタという当時107歳の人で

話を聞いたとたん亡くなったのです。

 

お釈迦さんの最後の弟子と言われた方ですね。

実はこのシバリタさんがその後生まれ変わって

やがてテンシンさんとなったのです。

 

そしてこのテンシンさんはその後、

 

日本人にも生まれかわりました。上杉謙信ですね。

八正道

 

八つの正しい道

<八正道>-自分の眼の前に出てくる、一切の諸現象に対して、

 

  1. 正しく見る…共通の立場で見る
  2. 正しく思う…物事の根本的なもの
  3. 正しく語る…愛のある言葉
  4. 正しく仕事をなし…仕事を通して豊かな魂をつくる
  5. 正しく生き…長所を伸ばし、短所を正す
  6. 正しく道に精進し…社会関係を調和する
  7. 正しく念じ…三千世界に通ずる心の針(こくこくと変わる善にも悪にも通じる心の針)
  8. 正しく定に入るべし…第三者の眼で反省をする

 

 

自分の心を正そうと思ったら、少しくらい自分自身にきつくなるのは当然ですね。

畜生界―動物のようになった人間の姿

 

地獄には…

炎で真っ赤な、火炎地獄よりもっと…真っ暗な所もあります。

暗い所でも猫の目、動物の目は光ります、あれはどこかに明かりがあるからです。

 

本当に真っ暗とはそれもないくらい暗い。

ここは、寒くて、寒くて…。

 

そして動物の世界があります。

自分も動物になってしまう地獄です。

 

自分が動物のような心になっているから自分が動物に見えます。

苦しくてはいあがろうとします。

どこに行こうとするか

…肉体を持っている人間に憑依するのです。

 

疲れた人間はノイローゼになります。

キツネとかヘビとかがつくのです。

 

動物霊というのは人間なのです。

非人間的な生き方をして心が動物のように落ちてしまった霊なのです。

同じような心の人間に憑きます。

そして自分の思いを遂げようとします。

 

疲れた人間は精神病になり、

最後には自殺してしまいます。

 

道に外れた事はしないことです。

 

心で思っただけでも(魂の世界から言ったら)行為したのと同じことになりますから。

自分の足元を見る―形ではない心

 

自分は今、肉体を持った中で、心というものがあって、

 

  • 自分は何をしようと思ったのか
  • 自分はどういうふうなものからできているのか
  • 今の環境、境遇を通して、自分はどのようにしてこれを受け取って、今どのようにしようと思っているのか。

 

そして心の話に今ここで、出会った…。

「あっ、これは、私は永遠に生き続けていくその中で、唯一のチャンスかもしれない」

とそう思った。

そうなんですね!

 

それを大事にして、自分というものをよーく振り返って、

少しでも人に協力できる自分になることですね。

 

自分が今生きているということは、

実は多くの人のために生きているんです。

 

ところがみんな自分のために生きてしまう。

 

自分が朝起きて、寝るまでの間にやっていることは、

人に対してプラスになることを本当はやっているのです。

 

…もしやっていなかったら、それはマチガイですね。

 

私たちは人間として…足元を見つめ

  • 自分が本当に、どのような生活をしているか。
  • どのような心の状態でいるのか。
  • 自分の周りをどのようにしているか。

よく反省することです。

 

これができないで、遠くのものを一所懸命に「ああだ!こうだ!」と言ったとしても何もならないのです。

心からの布施―貧者の一灯

 

お釈迦さんの話の中に「貧者の一灯」という話があります。

 

お釈迦さんが説法するときには、話を聞く人が、その場所に灯を持って行ってあげていたのです。

 

ある村に、貧しいお婆さんがいた。

そのお婆さんは、その灯を1回でいいからあげたいと思っていたのです。

 

しかし、貧乏でお金がなくてあげることができない。

それで、その人は一所懸命、お金を貯めた。

しばらくお金が貯まって、種油を買いに油屋さんに行ったのです。

 

ところが、油屋さんのご主人から、お金が足りないから、売ることはできないと言われました。

お婆さんは困ってしまった。

 

考え込んでいたら、油屋のご主人が、

「お婆さん、油を一体何に使うのですか?」

 

「はい、実はブッタ(お釈迦さん)がお話しをされる所に、

私は1回も灯を上げたことがないんです。

1回でいいから、あげたくて、しばらくこれだけお金がたまったから、

今日こそは買って、灯をあげられると思って、やって来たんです。

もしできたら、このお金の分だけでもいいですから、分けてもらえないでしょうか」

 

それを聞いた、油屋の主人は、

「いやぁ、そうでしたか。

そういう事なら、お金はいらない。

ブッタの所へ、この油を持っていってあげなさい」

 

そう言われたんですけど、自分の持っていったお金は、とにかく置いて出たのです。

 

そして、油を持って、お釈迦さんの話を聞きに行ったのです。

しばらく灯をあげることができたんですね。

 

その次の朝になって、お釈迦さんのお弟子さんが、夕べ説法があった所の灯を消しにやってきたのです。

しかし、夜中に凄い風が吹いたのです。

見て回ったとこと、灯篭の灯は全部消えていました。

 

ところが、よーく見たら、1か所だけ、灯が煌煌と点いていたんです。

 

それで、そのお弟子さんは、不思議に思って、お釈迦さんに話したわけです。

 

「ブッタ、昨夜のあの強い風の中、なぜ、あの灯だけが消えずに、点っていたのでしょうか?」

 

「その灯りは、実は、貧しい人が、心からあげてくれたものなんですよ。

それで、その方の真心によって、強い風が吹こうが、関係なく輝いているんですよ」

 

と、お釈迦さんが言われた訳です。

 

私たちはつい、物の中に考えてしまいますね。

 

しかし、この教えというのは物ではないんです。心の事ですね。

血の池地獄

 

地獄には、血の池地獄という所があります。

 

全部、血ばっかりの…。

みんなそこでアップアップしています。

女の人が多いですが、男もいます。

 

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のお話。

これほんとうのことですね。

 

カンダタという男が血の池地獄でアッアップしていました。

 

ある日、蓮池にお釈迦さんが来られ、池の下をご覧になられた。

その下の血の池地獄の中のカンダタが眼につきました。

そのカンダタの心の中を見ていくと、「あ!大泥棒だ!」と…

でも1つだけ良い事をしたことがあった。

 

泥棒の帰り道、蜘蛛の巣を払おうとした時、

「あ!この蜘蛛の巣を私が払ったら、あの蜘蛛がせっかくエサを取ろうと巣をかけたのが駄目になってしまう」

とそこをさけて通ったのですね。

 

そして横を見たら、蜘蛛がいたんです。

お釈迦さんは

「あなたここにいらっしゃい。

今ね、あなたの仲間を救ってくれた人が下で溺れているから

あの人に糸をずーっと垂らしてあげなさいよ」と…。

蜘蛛はさーっと糸を垂らしたんですね。

 

アップアップしていたカンダタは、

「あ!ありがたや!」と糸につかまったのです。

そして糸を登り始めたのです。

青空も見えてくるところまで登ってきました。

 

「あともう少しだ!」と思ったその時、下を見たんですね。

すると糸の下をズラーっと亡者が連なって上がってきています。

これじゃ切れてしまう。

カンダタはその糸をおもいっきりゆすりました。

そいしたらその糸が自分の手の上から切れて、

わーっと自分も元の地獄に落ちていきました。」

 

本当はカンダタが

「みんなもう少しだから、自力を出していっしょに頑張ろう」

とそういう心を忘れなかったら、救われたでしょうね。

 

そういうことが私たちの生活の中にはたくさんありますね。

せっかくそこまで来ていたのに…

他の方へ行っていまったりするんですね。

 

こういうのを血の池地獄と言います。

 

今の世の中、人のためには一切しない。

自分だけ、自分の為だけですね。

自分勝手な、自分の思うようなことだけを通そうという考えが、今の世の中ですね。

こういう人は、みんな火炎地獄か血の池地獄に行ってしまいますね。

 

私たちは毎日の生活の中で、

  • 自分一人では生きられないんだ。
  • 必ず複数になっていて、私も生きているんだ。
  • 自分以外の人の幸せというものを、私は念じたころがあるだろうか。

そう思って念じるだけでもいいんじゃないでしょうか。

他を生かす―菩薩業

 

仏教の中に、華厳経というのがあります。

 

その十地品の中に、

  • 「一生はここに生まれた。
  • 二生はここに生まれた。
  • 三生はここに生まれた。
  • 四生はこういう名前で、こんな事をした。そして…」

と書かれています。

 

そういうものを人間は繰り返して、今ここにいるのです。

仏教、キリスト教にも同じもの・同じ事がちゃんと書いてあるのです。

 

しかし、仏教学者は、

「それは、後の人が書いたのです」と言います。

 

また「生まれかわりなんかないです」なんて言う人も出てきます。

春夏秋冬はなぜあるのでしょうか?

  • 春に芽が出る、葉が出る、花が咲く。
  • 夏に青葉になる。
  • 秋は葉が枯れ落ちる。
  • 冬には土に入る。
  • …そしてまた春…夏…秋…冬…。

輪廻しています。

なぜそんな輪廻があるのでしょう。

 

それは、植物だから、と

人間だけが特別だと思っているから「輪廻なんでない」なんて言うのですね。

おかしいですね。

 

自分が終わったら、自分はそれで終わりではないのです。

自分は多くのもののために肥やしになるのですね。

肉体ですよ…。

これは…。

 

そしてこの世には時間があります。

時間は、待ってはくれません。

1時間というのは自分の1時間なのです。

他人の1時間と思ったら大間違いです。

 

限られた時間の中で自分の「業」を修正してゆくのです。

業を修正しながら、いろんな苦しみに会っていること、

自分がやっていることは、実は新しいことばかりなのです。

 

そして私たちはその新しいことを、今、吸収しているのです。

そしてこの中で、今度は人のために少しでもお役に立てる自分になる。

 

  • 「自分は自分の為じゃないんだ。
  • 人の為に自分が存在しているんだ」

と、人の為に尽くしていったら、これが菩薩業ですね。

 

菩薩だからやるのではないのです。

みんな誰でも一緒なのです。

感謝でこの世を終わる

 

亡くなった人には、

  • 「あなた達は、そこにいてはダメですよ。
  • 私たちを見てご覧なさい。
  • これが本当の姿なんですよ。
  • あなた達は、もし暗い所にいたら、よーく自分の周囲を見てご覧なさい。
  • どんな所ですか?
  • 明るい所に行きたくありませんか」
  • 「それじゃぁ、よーく自分のことを振り返るんですよ」

と話をしてあげるのが、これがほんとうの供養ですね。

 

そうして自分の時間が来た時に、

  • 「ありがとうございました。
  • 私はおかげさまで、心の世界がわかりました。
  • そしてこのわずかな中で、お世話になりましたことを、心から感謝いたします」

そう終われたら、一番良いですね。これが本当なんですね。

 

これが「道」です。